チャ・スンウォン氏が演じた二つの作品の縁


「”イ・モンハクの乱”を噛みしめるべき時だ」というタイトルの記事を見つけました。

イ・モンハク…そう、スンウォン氏が映画「雲を抜けた月のように」で演じた役です。尚志大学の助教授が書いた、歴史に関する長い記事なのですが、「雲を抜けた月のように」ともう一つ、スンウォン氏が出演した作品とのつながりを見つけることができて、興味深い記事でした。

チャスンウォン イ・モンハク 雲を抜けた月のように



[web記事]「イ・モンハクの乱」を噛みしめるべき時だ
週刊傾向 2016.2.3

1596年丙申年が与える教訓、支配層が誤った現実を無視すれば、国民の不満爆発
2016年1月も末になった。十干、すなわち、きのえ(甲)・きのと(乙)・ひのえ(丙)・ひのと(丁)・つちのえ(戊)・つちのと(己)・かのえ(庚)・かのと(辛)・みずのえ(壬)・みずのと(癸)と、十二支つまり、ね(子)・うし(丑)・とら(寅)・う(卯)・たつ(辰)・み(巳)・うま(午)・ひつじ(未)・さる(申)・とり(酉)・いぬ(戌)・い(亥)の組み合わせである十干十二支で計算したとき、2016年は丙申年(ひのえさる・へいしん)に該当して、たくさんの人たちが「赤いサルの年」と呼ぶ。(さらにはモバイルゲームでも赤いサルを象徴するアイテムが登場した。)

「丙申年」という言葉のうち、十干に該当する「ひのえ(丙)」を陰陽五行説による色を当てはめると、赤い色で、十二支に該当する「申」がサルに該当するために「赤いサルの年」と呼び、普通同じ干支は60年ごとになるため、今年を「60年ぶりに戻ってきた赤いサルの年」と呼ぶのである。

新年になると、多くのマスコミで儀礼的にすることが、サル年の芸能人を挙げることと歴史的事件を扱うことだ。このうち歴史的事件と言われるのは、正祖(チョンジョ/第22代国王)の即位、イ・イ(1500年代の有名な儒学者)の誕生、後三国の統一(900年頃)などだ。マスコミではこのような歴史的事実を挙げ、「サルは知恵の象徴であり、立派な人物が生まれた年だけに、我が国でも良いことが多かったら良いだろう」という趣旨の記事を生産している。

チャスンウォン イ・モンハク 雲を抜けた月のように


「雲を抜けた月のように」映画化された騒乱
私は少し違った事件を取り上げたい。歴史の中で丙申年に良い事ばかりがあったはずもなく、不幸な事件や議論が入り乱れていた事件でも、現代を生きる私たちに教訓と示唆を与えることができるからだ。私が扱おうとする丙申年の歴史的事件は、まさに「イ・モンハクの乱」だ。すでに「雲を抜けた月のように」というタイトルで映画化された歴史的事件でもある。

イ・モンハクの乱は、丙申年、1596年(宣祖29)にイ・モンハクが主導して発生した騒乱だ。イ・モンハクは、同い年が集まる会(同甲会)の会員たちを中心に蜂起に参加する人たちを集めたが、その結果、多くの人たちがイ・モンハクに同調した。その勢いは一時6つの村を占領するほどで、洪州(ホンジュ)を占領して漢陽(ハニャン)に進撃する計画を持っていた。しかし、洪州の占領に失敗し、軍勢は急速に傾いた。また、鎮圧軍が一揆軍に「イ・モンハクの首を斬る者は、反乱に加担したとしても大きな賞を与える」とすると、イ・モンハクの首を斬ろうと思う人々が現れた。結局、反乱軍キム・キョンチャンなどによってイ・モンハクは斬首され、反乱は鎮圧された。

前述した大まかな概要だけを見ると、イ・モンハクの乱は、わが国の歴史の中で数え切れないほどたくさん起こり、そしてほとんど失敗した多くの騒乱の一つとして受け止めることができる。しかし、イ・モンハクの乱は、様々な面で丙申年を迎えた我々にとって、いろいろと考えさせられる事件である。

まず、乱が起きた時期である。普通、騒乱は国が危ぶまれて、暴政がピークに達した時に起きる。それで騒乱は、一つの国が衰退して新しい国が起こるようになる決定的なきっかけになったりする。ところが、イ・モンハクの乱が起きた1596年は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が盛んだった時期だ。すなわち、国家が外国の軍隊と戦争中に起きたのである。自分の国が危ういなら、急いで避難したり、国を守るために渾身の努力を尽くすのが普通だが、イ・モンハクの乱を主導した勢力は、安民靖国、つまり民衆を平安にして国を正す(さらに、敵国の再侵略も止める)という基調を前面に掲げ、新しい世の中を作ると主張した。

彼らは捕虜でもなかったし、日本軍に協力したことが発覚して弾圧を受けた人でもなかった。これは長い戦争と飢饉で当時、民心が支配層から大いに離れていたということを端的に示している。しまいに民心が離れたら、咸鏡道(ハムギョンド)に避難した臨海君(イメグン)を捕まえて敵国に捧げ、騒動まで起こすほどだったのだろうか。

次に乱を起こした中心勢力たちだ。イ・モンハクは庶子(婚外子)出身だった。そしてイ・モンハクと一緒に同い年の会を組織していた人たちの多くも庶子出身だった。庶子は、正妻の子でない妾の子あるいはその子孫を意味し、彼らは両班(ヤンバン/高級官僚)の子として認められず、ごく一部の事例を除いては官職への進出も不可能だった。また、イ・モンハクの乱に加担した人たちはほとんどイ・モンハクと似たような庶子、そして奴隷や僧侶だった。つまり大部分が社会から冷遇を受けて、自分の意志を広げる道が基本的に封鎖された人たちであった。

面白いのは、僧侶たちの加担だ。このような僧侶たちは、僧軍を組織して外国の敵と戦っていたが、ある僧侶たちは一揆勢力に加担したのだ。僧軍を組織しようが、一揆に加担しようが、かなりの経済力と人的基盤がなければ考えにくいことだった。「朝鮮は性理学(儒学の一派)の国家であった」ということを覆すに値する事例だと言える。

最後に乱の事後処理である。イ・モンハクが反乱軍内部の者たちによって斬首された後、乱は鎮圧される。ところが、イ・モンハクの乱を鎮圧し、その主軸勢力を明らかにしていく過程でとんでもない義兵長たちが、拘束されるようになってきた。乱の主軸勢力を尋問する過程で、クアク・ジエウ、キム・ドクリョンなど名を馳せた義兵長の名前が、シン・ギョンヘン、ハンヒョンなどの首謀者たちの口から告白されたのだ。それもそのはず、騒動の初期から主軸勢力は「キム・ドクリョンと、義兵長クアク・ジエウ、ホン・キョナムなどが全て軍隊を共同で支援している」とし、さらにはオソンとハヌムで有名な当時の兵曹判書(ピョンジョパンソ/軍事を統括する大臣)イ・ドッキョンまでが支援していると主張した。

事後処理過程の義兵長たちのとんでもない犠牲
その結果、キム・ドクリョンはクアク・ジエウ、コ・オンベク、ホン・キョナムなどと共に逮捕された。このうち、クアク・ジエウは紅衣将軍として有名な義兵将として、日本軍の間でも恐怖の対象であった。キム・ドクリョンも、潭陽(タミャン)地域で義兵を起こし、その活躍を認められて宣祖(ソンジョ/第14代国王)に刑曹佐郞という肩書きと忠勇将の君号(王から授かる名前)受けて、当時認められていた義兵長であった。結局、キム・ドクリョンは20日余りの間に6回の拷問を受けた末に獄死することになる。命を捧げて敵国の侵略に対抗した義兵長が、彼が救おうとしていた国から、反乱に協力したという罪状でひどい拷問を受けて死んでいったのだ。この過程で、党争などの政治的理由があったことは言うまでもない。そして彼の無念が解けたのは、しばらく経った1661年(玄宗2)のことだった。

イ・モンハクの乱は、騒乱の時期、主軸勢力、事後処理を見ると、2016年の丙申年を生きる我々に示唆するところが大きい。私たち国民は、朝鮮戦争以来、低賃金と海外労働者派遣をいとわないなど、国家経済の高度成長のための犠牲となった。また、IMF経済危機で国のためにたんすの中にあった金製品を惜しみなく差し出した。そして今も政治的抑圧と経済的不平等に耐えながら暮らしている。支配層が誤った現実を無視するなら、国家が危機の時も乱を起こしかねないということをイ・モンハクの乱が教えてくれている。

また、2015年に突然箸とスプーンの材料が話題になったのも思い出される。金の箸とスプーン、土の箸とスプーンの議論がそれだ。これは身分の差別が無くなったというこの頃の社会で、新しい身分差別が生じたことを示すものだ。身分差別が厳しく、それが当然のこととして受け止められた朝鮮時代に、その身分差別に耐え切れず、騒乱が発生したという点に注目すべきである。

最後に、歴史の客観的で正確な判断と教育も重要だという気がする。近代以前の非人間的な拷問は結局、国のために命を捧げた義兵長のキム・ドクリョンを反乱の首謀者にした。そしてその無念が解けたのは約100年後だった。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に立ち上がったその多くの義兵長たちが、丙子胡乱(へいしこらん)の時はなぜ現れなかったのだろうか?国のために命を捧げなければかえって反乱軍として死を迎える可能性があるということではなかったのだろうか?我が国は解放以後、分断や理念を理由に多くの人たちを過小評価、または過大評価した。今でも歪んだ歴史を正し、これを基に自由だが正確な歴史教育が必要な時である。
<イ・ジョンウ尚志大助教授>

(週刊傾向の記事を翻訳しました)
※文中のカッコ内のフリガナ及び簡単な解説は管理人が付け加えました。

*この記事は週刊傾向のニュース記事を管理人が翻訳しました。チャ・スンウォン氏の非公式ファンサイトとして、日本のファンへの情報共有を目的に無断翻訳しております。著作権者、利害関係者からの削除要請の意思表示を受けた場合、速やかに誠意をもって応じたいと思いますのでご一報ください。

------------管理人のつぶやき------------

ちょっと硬い歴史の記事なのですが、スンウォン氏が映画「雲を抜けた月のように」で演じたイ・モンハクに関する記事でしたので、気になって翻訳してみました。記事を読み進めるうちに、知っている名前が出てきました。臨海君(イメグン)、イ・ドッキョン…?

そうなのです。スンウォン氏がドラマ「華政」で演じた光海君と、イ・モンハクは同じ時代に生きていたのです。ちなみにイ・モンハクが斬首されたのは1596年で、その時光海君は20歳くらい。当時、世子(セジャ/皇太子)だった光海君と、乱を起こしたイ・モンハクとでは立場が全然違いますが、同時代に生きた対照的な役を、スンウォン氏が両方演じたというのは面白いですね。

久しぶりにイ・ドッキョンという名前を聞いて、「華政」でスンウォン氏演じる光海君に、いつも忠実な進言をしていた、イ・ソンミン氏演じるイ・ドッキョンを懐かしく思い出しました。忠臣でありながらも悲しい結末を迎えることになり、スンウォン氏との対立や悲しいシーンが多かったのですが、どれも印象に残るものでした。

光海君とイ・ドッキョンに関する古い記事をいくつか…。
☞[web記事] 「華政」チャ・スンウォン、イ・ソンミンに「私の右腕になってほしい」
☞[web記事]「華政」イ・ソンミン「チャ・スンウォンは気さく、チョン・ウンインはジェントルな俳優」
☞[web記事]「華政」チャ・スンウォン、人間性捨てた「非情な選択」

映画「雲を抜けた月のように」から、スンウォン氏の写真を何枚か…。

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映画の記者会見の写真

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