[web記事]光海君の功、異なってはいたが、間違っていなかった彼の型破り


チャスンウォン
私が殿下と違うことがお嫌だったことを知っています。
私は、殿下のように無能ではないから。
ええ、違います。 私は殿下とは異なる王になります。
今からこの国の王は私です、父上。


仁祖反正により追放され、結局、王としての諡(おくりな:死後に贈られる称号)さえ持たなかった王として歴史に残ったが、当時の朝鮮では型破りだった数々の行動によって、現代になってからも絶えず脚光を浴びている人物、光海君。「華政」でも、民と国を思う人間的な王でありながら、反対勢力を除去してでも意志を貫徹させようとする、強力な君主を夢見た光海君の二面性のある姿をそのまま描いている。


チャスンウォン


『公私見聞』では「光海が世子(セジャ)になったのは、純粋にその言葉によるところが大きい」と伝えている。 宣祖(ソンジョ)が世子を決めるために、複数の王子たちに投げかけた質問で、光海君が最も高い評価を得たという。一例として、宝物を盛大に並べておき、思いのままに取るように勧めたところ、他の王子たちは互いに争って宝物を手にしたが、光海君は筆と墨を選んだという。それだけでなく、「おかずの中で何が一番か?」という宣祖の質問に、光海君は塩と答え、「塩がなければ、あらゆる味を作り上げられないからです」と述べたりもした。


華政華政



最終的に、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に、急いで世子に冊封(さくほう:位を授かること)された光海君は、朝鮮の歴史上初めて王の権限が分割された、分朝(壬辰倭乱の時に立てた臨時朝廷)の中心に立って、戦争の真っ只中である南側への前進も厭わなかった。これは、朝廷の健在さを知らせて、散らばった官吏と義兵たちを寄せ集めるのに重要な役割を果たした。またこの時、光海君が直接目撃した民たちの生活ぶりは、以後、彼が改革的な政策を推進するに至る背景となった。


20150524imbc5.jpg
しかし私は苦境に陥った民を見捨てはしないのです。大同法を始めます。
お金のない民からではなく、お金のある両班(ヤンバン:高級官僚)が必要でしょう。
私は彼らのお金で民を救済して、国を立て起こすのです。



光海君元年(1608)に京畿道一帯で始まった大同法は、各地方の特産物を年貢として捧げていたものを、米で統一して、所有した土地に比例して課税するようにした制度だ。以前の年貢制度は、各地方の特産物を捧げていたが、負担が不公平かつ、輸送と保存の点で不便が多かった。また、一種の請負業である代納が盛んに行われ、代納人が中間で暴利をむさぼり、その利益を権力者に上納する弊害が続いた。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時にも似たような問題提起があったが、反発がひどく、すぐ消えてしまったこの法は、光海君の代で領議政(ヨンイジョン:政治的ポストの名。今でいう総理大臣)イ・ドッキョンが積極的に唱え、再実施することができた。以降、大同法が全国的に拡大されるまでは100年の時間がかかったが、その出発点になったという意味を見ることができる。


華政

大同袍施行記念碑©文化財庁
亀の台座の上に碑身(文章を刻み付ける平らな石の部分)を立てて、一番上に石まで備えた姿で、各部分の彫刻は形式にとどまっている感がある。 碑の本来の名称は「金堉大同均役萬世不亡碑」または「湖西宣惠碑」である。碑文は、弘文館の副提学(地位の名称)を務めたイ・ミングが建設して、議政府(ウィジョンブ)の右参賛(地位の名称)オ・ジュンが字を書いた。



光海君は明との関係でも以前の王たちとは全く違う態度をとった。明と後金(こうきん:国の名前)の間でどちらにも偏らなかったとして、「実利外交」あるいは「中立外交」と称される光海君の対外政策は、「華政」の中で「マンクォルレ(望闕禮)」を拒否したことを通じて、象徴的に現れている。マンクォルレとは、正月、冬至、中国皇帝の誕生日に、王をはじめとする文武官吏たちが中国の宮廷のある方向に向かって礼をする儀式のことを指す。

実際の朝鮮王朝実録によると、マンクォルレは、光海君5年(1613)「泥水のために礼を挙行することができず」、臨時停止される。また、光海君13年(1621)にも「正朝(元日)に行うマンクォルレと、本朝で執り行う陳賀をまずすべて停止せよ」とし、秘密裏に備忘記に記された内容を確認することができる。


チャスンウォン
大臣たちがあれほど好きな大義と義理のことを話そう。
私の大義は明国の安全ではなく、私の国、朝鮮の安全だ。
また、私が守らなければならない義理は明国のものではなく、私の民の命である。


明の派兵の要求に対しても光海君は慎重に対応しようとする。「明へ恩返しするのが道理」と主張した臣下に「二度と恩だの、裏切りだのとそんなことを言うな。」と一撃を加えたりした。

結局、明からの圧迫で、一旦1万2千人の兵士を送るが、カン・ホンリプに「形勢を見て適当に投降した後、後金に我々のの困惑した立場を説明して、誤解がないようにせよ。」と密命を下している。結局、この兵士たちは、たった二度の戦闘の末に全員後金に投降して、被害を最小化した。 しかし、このような光海君の選択は、当時としては受け入れがたいものであり、これは支持勢力だった大北派(テブクハ)も同様だった。そして次第に光海君は孤立無援の状態に陥るようになる。


その後、光海君が迎えることになる悲劇的最後は、逆説的に彼の功労を現代の立場から再評価しようとする意欲を呼びおこした。記録の大部分が反対勢力によって新たに書き加えられたり削除されたりしたが、このような記録の間でさえぎられていた隙間が、後代の人よって復元されているものもある。これはおそらく特別な賢さにもかかわらず、政治的には失敗した王として歴史に残った光海君が、現代を生きる我々にとって相変わらず多くのことを示唆しているからだろう。

(「華政」ホームページからiMBCの記事を翻訳しました)


------------管理人のつぶやき------------

「華政」のホームページのニュース記事の中に、「華政実録」というシリーズがあります。
この記事もその一つで、歴史とドラマを関連付けて解説したものです。先日ご紹介した、☞『不細工なことで歴史に残った女性、キム・ゲシとは誰?』という記事もこのシリーズの一つです。

歴史解説ということで、内容は少々難しいのですが、歴史的事実と、ドラマの中の出来事がうまく組み合わさって、「華政」をさらに深く楽しめる記事だと思います。

ドラマの中では、スンウォン氏演じる光海君がだんだん孤立していく様子が描かれています。この記事を読んでいるうちに、光海君は当時の朝鮮には新しすぎる考えを持っていたのではないかと思いました。もう少し後世に生まれていたら、名君として名を残していたかもしれませんね。時代に翻弄された光海君の無念さが伝わってくるような記事でもありました。

明日はいよいよ第13話。夜10時から、お見逃しなく!

関連記事

Comments 0

There are no comments yet.

コメントを書く/Comment