チャ・スンウォン氏新ドラマ「華政」まだ間に合う!光海君大研究⑤


佳境に入ってきました!光海君大研究。
連載5回目は、王となった光海君がどのように国を治めたのか、解説していきます。

過去の連載はこちらからどうぞ。
<連載1回目>はじめに
<連載2回目>光海君を取り巻く人々
<連載3回目>出生、そして王の後継者争いへ
<連載4回目>後継者争いの末に…ついに王に!


15代国王として -光海君の政治-

15代目の国王として即位した光海君(クァンヘグン)は、現実的な利益を重視した外交政策、王権の強化、民の暮らしの安定、政治的な派閥の争いの収束などに力を入れた政治を行いました。

外交政策では、周辺国である明(ミン)の衰退に伴い、明との関係を見直し、また、1609年には日本と「送使約条」を結び、対日外交を再開するなど、時代の流れを読んだ対外政策をとりました。


チャスンウォン


戦乱で焼けてしまった宮殿の再建や改修を行い、焼失した歴史書などの書籍の刊行も指示しました。また、全国の農地調査を行い、納税制度を見直して、民の暮らしを救済すべく減税を行ったことも知られています。戦乱で荒れ果てた当時の都、漢城(ハンソン)から坡州(パジュ)という別の場所に都を移す計画も練っていましたが、これは様々な事情により延期され、実現することはありませんでした。

光海君は、王権を強化するため、自分が国王となるまでに王位継承に関して計略をめぐらせた反対勢力に対して、厳しい取り締まり、「粛清(しゅくせい)」を行ったことでも知られています。当時、光海君を支えた派閥、「大北(テブク)派」と呼ばれる政治家たちによって、次々と粛清が行われました。

1608年には同じ母から生まれた兄である臨海君(イメグン)を配流し、毒薬を与えて葬りました。1613年には、最後まで王位継承者の座を巡って争った8歳の異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)の冠位をはく奪して配流した後に殺し、1618年には、その母である仁穆王后(インモクワンフ)を幽閉しました。

華政
仁穆王后(インモクワンフ)


次回は王座から降りた光海君について解説したいと思います。人生の難局にぶつかった光海君はどうなるのでしょうか…。

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